TsunaKamisawaのブログ

小説みたいなものを書きます。

石の女

村の外れには井戸があり、井戸の横には小さな家があった。 家には「於しな」という女が住んでいた。
於しなの父は村でも名の知れた医師で、この家は父の亡くなったのち於しなの物となった。
於しなは井戸の横のその家を良く手入れして暮らしていた。

女が井戸を覗き込んでいる。
於しなである。
於しなは暫し井戸の傍に立って中を覗いていたが、慣れた動作で水を組み上げた。
組み上げたものの水面には於しなの顔が映っている。
それほど老いてもおらず、それほど若くもない、痩せた洗い髪の女である。

於しなは自分の頬に手をやり、すっとこめかみまで撫で上げた。
皮膚には張りがなく、手も荒れているものであるからカサカサと音がする。
足先が冷える。
湯を沸かさねばならない。
於しなは汲みたての水を移して家の中へ戻った。

於しなには夫が居た。 亡父と、村の身内達の連れてきた歳若い男である。
於しなと数えで十ほど違う。この夫も医師の家の次男で、寡黙ではあったが気の優しい、実直な男だった。
於しなは夫の事を考える。
夫はいまは隣町の診療所に行っているのだ。 「熱心な事でありますなぁ」と村の老婆などは言う。 わたくしには勿体ないひとです、と於しなはその度実に申し訳なさそうな貌をして答えた。 それは嘘では無かった。

夫婦となって三年ばかり経つ。於しなと夫の間に子供は居ない。 授かりものであるから、気にせぬように、と夫は於しなの目を見て言った。 於しなは頷くほか無かった。
ひとしきり家の事を終えて、於しなは縁側に腰掛けた。この家の縁側は日当たりが良い。 誰も見ていないのをいい事に両足をぶらぶらさせていると、童女の様な気分になる。 亡父は忙しい人であったが、たまに昼餉のあとなどに於しなを膝に乗せて古い煙管を吸っていた。

縁側で陽射しをさんさんと浴びながら、「石女」と於しなは思う。
自分はこの家のひとり娘なのに、わたくしのせいで血が絶える。
そしてわたくしはあの人の子が欲しい。ややが欲しい。夫にわたくしと夫のややを抱かせたい。
於しなは赤子の手について思う。 この前、村の女に抱かせて貰ったのだ。 赤子は不安げに於しなを見たが、ぐずりもせずその左手でぴとりと彼女の頬に触った。 少し汗ばんで、熱いが柔らかな手であった。

わたくしは石。
何も成さない石。
路傍の。
ゆっくりと土に沈んでいく石。
ひんやりとしてなにも産まぬ石の。

…………

石の女に用のある男が居るだろうか。 あの人は若い。わたくしよりずっと若い。 凛と背すじの伸びた、肌の美しい男。 屹度もっと若いお嬢さんの横に居た方が良いのだ。 もっと艶やかな髪のーーーもっと弾けるように笑うーーーわたくしがもう持ち得ぬ輝きを持ったーーー
暮れまでに兆しも無いのなら一度離縁を切り出そうと於しなは思う。どちらかが口に出してしまえば、なんとなく行く末は決まる物だ。
夫の睫毛の長さを思う。行燈を灯すと、顔に睫毛の影が落ちるのだ。

「於しなさん」
と呼ばれてふと顔を上げた。夫が立っていた。 「あら」と言って夫の荷物を持つ。 「お帰りなさいまし。仰ったよりお早いわ」 「向こうの先生が感冒になった。医者の不養生とはこのことだと皆笑っていたが」

「優作さん」
「はい」
於しなは目を細めて夫を見た。疲れているのだろう、うっすら隈が浮かび、顎の横下に髭の剃り残しが有った。 「卵を頂きましたの。おじやにでも致しましょうか」 「うん。うん。食べたら少し寝るよ」 荷物と、縁側からひょいと上がる夫の草履を持って於しなは家の中へ戻った。

石ではない、わたくしはまだ石ではない、と草履を揃えながら彼女は思う。
わたくしは石ではないーーー
三和土は於しなの瞳から零れたものを吸って黒い染みを作り、間もなく乾いた。